神戸学院大学生が聞いた「小豆島の災害の記憶」
こんにちは、土庄町地域おこし協力隊・域学連携担当の森です。
昨年度(2023年度)の5月と9月に来島し、47年前の1976年に起きた土砂災害の記憶について調査を行った神戸学院大学3回生のみなさんが、被災された地域の方々の証言を、映像作品に仕上げて送ってくれました!
災害が起きた1976年は元号で言うと昭和51年。
このため小豆島の年配の方々は、「昭和51年に起きた災害」を、略して「51災」と呼んでいます。
今回この災害に注目することになったのは、私が土庄町大部地区に移住して間もない頃に、地区住民の方々とよもやま話をしていた時、「51災の時はこの集落に至るまでの道が寸断されて行き来出来なくなった」「山からは土砂崩れがあり、海からは高潮が迫り大変だった」‥などと耳にしたことがきっかけ。
「『ゴジュウイッサイ』って何ですか!?」と尋ねると…、
小豆島では昭和51年9月に、台風が九州の南西海上に停滞し続けて南の湿った空気が流れ込んできた影響により、集中豪雨が発生し、大規模な土砂災害や高潮被害が起きたとのこと。年間総降雨量1,400ミリに相当する雨が、たった一週間のうちに降ったというのですから、その激しさは想像を絶します。
その後、当時の新聞記事や被災者の証言集をめくっていくと、「山津波」「1,400ミリの爪痕」といった土砂崩れの激しさやそれによる傷跡の深さをなんとか伝えようとしたいくつもの言葉に出合うことになりました。「山が沸いている!早く避難を!」と呼びかけられ、「山が沸く」という言葉に驚いたと話してくれた人もいます。
しかし、こうした当時の状況を覚えているのは60歳以上の方々のみで、地元の若い世代にその記憶は継承されていないようでした。しかも、土庄町には、51災の原因と対策をまとめた資料は作成されましたが(『災害復旧を終えてー郷土の防災ー』土庄町、1979年)、被災者の声が分かる資料は残されていませんでした。他方で、51災だけでなく、その2年前の49災(昭和49年=1974年の災害)の際にも町のほぼすべてのエリアが甚大な被害を受けた小豆島町(当時は内海町、池田町)は、香川大学と連携して、『小豆島 災害の記憶』という冊子と「小豆島災害証言映像」を公開しています。
▶ 『小豆島 災害の記憶』(小豆島町、2014年)
▶ 「小豆島災害証言映像ー昭和49年ー」(香川大学)
https://www.kagawa-u.ac.jp/iecms_archives/
そこで、2022年度から土庄町にフィールドワークに来てくれている神戸学院大学 現代社会学部 松田ゼミ3回生のみなさんに、51災の災害の記憶を聞き取ってもらい、後世の防災のために生かせるような映像記録を作ってもらおう!ということに。学生さんたちは、1995年1月に起きた阪神・淡路大震災の記憶を継承する取り組みが神戸ではどのように行われてきたのかを事前に学習し、映像制作に携わっている人から撮影の技術や心得も学んだ上で、被災者への取材に取り組んでくれました。
ここでは、学生たちによる証言映像を紹介する前に、もう少し過去に起きた小豆島の災害の特徴や土庄町における51災の被害状況について振り返っておきましょう。
小豆島で起きた大きな災害は「台風」によるものが多い
過去数十年の間に小豆島で起きた大きな災害は、「台風」が主因となったという共通点があります。土庄町のみなさんの記憶によく残っている大きな災害をいくつか挙げてみると…
・1969年7~9月(昭和40年):大鐸地区肥土山集落の地すべり、9月には台風23・24号による豪雨
・1974年7月(昭和49年、通称 49災):台風8号による集中豪雨、土砂災害
・1976年9月(昭和51年、通称 51災):台風17号による集中豪雨、土砂災害
・2004年8月(平成16年):台風18号による降雨、高潮被害
これ以外にも、前出の『小豆島 災害の記憶』(小豆島町、2014年、32-33頁)に掲載された小豆島の災害年表によれば、1871年(明治4年)以降に起きた災害48件中42件は台風が襲来する7月~9月(特に9月)に集中しています。
1995年1月の阪神・淡路大震災、2011年3月の東日本大震災、2024年1月の能登半島地震、さらにはつい先日の台湾地震と、ここ30年は日本及び周辺地域で地震による甚大な被害が起きており、南海トラフ地震の発生確率は2020年から30年以内に70~80%と指摘されています(『国土交通白書』2020年)。それゆえ、防災と言えば「地震」に意識が向きがちですが、小豆島や豊島・小豊島など近隣離島においては、夏の「台風」への備えも十分にしておかねばならないと言えるでしょう。
地図・写真でみる土庄町の51災の被災状況
さて、それでは51災において、土庄町ではどのような被害があったのでしょうか?
前出の『災害復旧を終えてー郷土の防災ー』(土庄町、1979年)の「土庄町被災位置図」によると、土庄町にある7つの地区のうち、特に大部地区で死者が4名もでるほどの深刻な被害があったことが分かります。しかし、それ以外の地区でも、すべての地区で多数の家が家屋の倒壊、浸水被害があったことが分かります。
【大部地区】死者4名、軽症者1名、全壊家屋17戸、半壊家屋10戸、床上浸水57戸、床下浸水255戸
【北浦地区】全壊家屋5戸、半壊家屋4戸、床上浸水14戸、床下浸水70戸
【四海地区】半壊家屋2戸、床上浸水19戸、床下浸水46戸
【大鐸地区】軽症者2名、床上浸水2戸、床下浸水80戸
【渕崎地区】半壊家屋1戸、床上浸水55戸、床下浸水104戸
【土庄地区】重傷者3名、軽症者1名、全壊家屋3戸、半壊家屋2戸、床上浸水37戸、床下浸水81戸
※戸形地区も含みます。
【豊島地区】重傷者1名、床上浸水11戸、床下浸水87戸
その後に発刊された『土庄町誌 続編』(2008年)をひもとくと、土庄町の死者は6名に増え、建物の全半壊は54戸、床下浸水929戸、農作物被害面積382ha、公共土木・農地など被害金額は21億8,240万円に上る「未曽有の大災害」だったと書かれています。数字をみるだけでも町全体でかなりの被害があったことが分かります。
次に、被害が大きかった地区内の集落の状況を写真で見てみましょう。この写真は、土庄町が51災の被災状況を把握し、記録するために保管していたものです。最初の5枚は大部地区にある6集落のうち5集落(①大部地区向町、②大部地区小部、③大部地区上野、④大部地区田井、⑤大部地区琴塚)の土砂崩れを撮影した上空写真です。灘山集落の様子は撮影されていませんが、新聞記事や聞き取りによると、小学生の女の子が亡くなるなど大きな被害がありました。
神戸学院大学の学生は、1枚目の写真が撮影された向町で被災した方や、救援・復旧活動に携わった方にお話を伺いました。
次の3枚のうち2枚は四海地区(⑥四海地区小江、⑦四海地区伊喜末)、1枚は土庄(戸形)地区小瀬集落の状況です。地図からは想像できないような大きな土砂崩れが、大部地区、四海地区、土庄(戸形)地区を中心に発生していたことがありありと伝わってきます。
神戸学院大学3回生の2023年9月のフィールドワーク
先にも述べたように、神戸学院大学3回生は、土庄町の中でも特に被害の激しかった大部地区向町に焦点を定め、調査・映像撮影を行いことにしました。
5月の一回目の調査の際には、小豆島町側で大きな被害を被った西村地区(現在の道の駅オリーブ公園一帯)の被災状況や復興過程、馬木~苗羽地区の「醤の郷」近くに建立された被災者を悼む「やすらぎの塔」を視察し、土庄町大部地区とはどんなところなのか?見学をしました。
そして9月にはいよいよ証言動画の撮影です。12日~13日の一泊二日の間、次のような行程で撮影を行いました。
9月12日(火)には…
元土庄町役場職員で被災当時大部地区在住職員として、大部地区公民館に待機していた島田明さんに、51災の全体像とその後に実施された防災対策について伺いました。花崗岩が削られたサラサラの真砂土の上に集落を築いている小豆島ならではの被害のあり方や、「百年に一度土砂が流れる」という言い伝えのあった「ナガサレやま」がその時本当に流れたこと、各集落の被害状況の違い、ハザードマップや砂防ダムの建設などその後確立された防災対策、などなど、お話は多岐にわたりました。
その後、大部地区灘山集落へ行き、灘山の中村自治会長とこの集落ご出身の小川千代子さん、役場職員としてこの集落の被災状況の把握のために派遣された橋本勝成さんにお話を伺いました。現在も石の採掘が行われている硬い岩盤からなるこの集落では、真砂土が流れた他の集落とは異なり、土砂崩れが起きた箇所は一カ所のみで、他は水がもの凄い勢いで滑り流れる「鉄砲水」が怖かったとのこと。集落の自然環境の在り方によって、災害時に生まれる状況が違うのだということが良くわかりました。
9月13日(水)は、いよいよ撮影当日。三つのグループに分かれて、証言映像の撮影を行いました。
まずは視察・撮影の様子を紹介したスピンオフ映像をご覧ください!
学生たちが撮影・編集した「大部地区住民の証言映像」
それでは、3組の方々の証言映像を紹介しましょう。
① 石井好輝さん「未曽有の災害への対応」
石井さんは51災当時、大部地区琴塚在住の土庄町役場職員。大部地区のなかでも被害が激しく、避難所になっていた大部地区公民館がある向町へ、被災状況の把握と救援作業のために向かいました。その現場で見たこと、感じたこと、被災体験から学んだ教訓についてお話してくださいました。
② 砂子輝明さん、荒井光洋さん「忘れようとしている」
砂子さんと荒井さんは51災当時、大部地区向町に暮らしており被災されました。激しい雨、土砂崩れのなか避難し、救援活動を行った体験とは?思い出したくもないほどの恐ろしい体験をあえて振り返り、後世のためにと語ってくださいました。次に紹介するご家族を亡くされた小川さん夫婦の様子も語られています。
③ 小川誠さん、千代子さん「家族を襲う悲劇」
小川さんご夫婦も、51災当時大部地区向町に暮らしておられ、被災されました。そして、誠さんはお父様を亡くされます。誠さんは救援活動、千代子さんは幼い子どもたちを抱えての避難生活、それぞれの体験を語ってくださいました。避難生活の中で苦労したこと、今心掛けていることなど、体験者ならではの言葉をお聞きください。
安心して暮らせる地域にするために
さて、いかがだったでしょうか?
フィールドワークを終え、学生たちが撮影・編集してくれた証言映像を見て改めて思うのは、日ごろから自分たちがくらす地域の災害の歴史や災害特性について深く知り、備えをしておくことがいかに重要かということです。
折しも、大部地区公民館では、2022年度と2023年度の二度、地区住民を対象とした「防災セミナー」が開催されました。2023年10月29日の回には、高松地方気象台、日本赤十字社香川県支部、香川県社会福祉協議会の方々を講師に招き、香川県の災害特性や実践的な災害時の救急手当の方法、避難所ですぐにできるご飯の炊き方まで、さまざまなことを学びました。
きっと防災セミナーに参加された大部地区住民おひとりおひとりに、51災の記憶とともに、大変な状況のなかから立ち上がって生活を築き直してきた経験が蓄積されているのだろうなと思いながら参加しました。一人で考えるよりも、いざとなった時に助け合うことになる地区住民と、日ごろから災害について考え、対策を練る機会があるのはとても良いことだとしみじみと感じた一日でした。
最後になりましたが、つらい体験をお話してくださった証言者のみなさん、フィールドワークに協力してくださったすべてのみなさんにこの場を借りて御礼申し上げます。みなさんから学んだことを生かすために、域学連携事業では、今後も防災について継続的に取り上げていきたいと考えています。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
そして、神戸学院大学の学生のみなさん、証言映像の撮影・編集をありがとうございました。お疲れさまでした!