神戸学院大学3回生📸「災害の記憶を記録する」

9月12日~13日まで神戸学院大学松田ゼミ3回生が、二度目のフィールドワークのために来島されました。

昭和51年(1976年)の大部地区の災害を記録するために…

🍋学生たちのテーマは、昭和51年(1976年)に小豆島を襲った、台風を起因とする土砂災害の記憶を記録すること。昭和51年の災害は、小豆島では「51災」と呼ばれ、昭和49年の災害(41災)と共に60歳以上の方々の記憶に深く刻まれた出来事。

🍋小豆島では、特に小豆島町側の各地域で激しい被害がでたことから、小豆島町エリアでは内海町・池田町が合併して小豆島町になる以前から、災害体験の記録化が活発に行われてきたようです。

🍋一方で、土庄町側でも被害があったにもかかわらず、土庄町住民の被害体験を記録した媒体がない。ということで、学生たちが、土庄町の中でも特に被災が激しかった大部地区で、住民たちにインタビューをして、その映像を若い世代に向けて発信してくれることになったのです。

🍋『土庄町誌 続編』によれば、土庄町の死者は6名、建物の全半壊54戸、床下浸水929戸、農作物の被害面積382ha、公共土木・農地など被害金額は21億8,240万円という「未曽有の大災害」だったと書かれています。こうした数字を見るだけでも、かなりの被害があったことが分かります。

🍋しかし、実際に被災のあった集落を歩き、お話を聞くと、そえがどれほど恐ろしい体験であったのかがひしひしと伝わってきました。今でも、突然土砂に襲われた瞬間を思い出すと、体が震えるようで恐いという方も。「思い出したくない、話したくない」体験を、「それでも伝えなければ、なかったことになる」と話してくださった方々には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

大部地区フィールドワークDAY1

🍅元役場職員で被災当時大部地区在住職員として大部地区公民館(当時は支所と呼んだ)に待機していた島田さんに、大部地区全体の被災状況を教わりました。花崗岩が削れた真砂土の上に集落を築いている小豆島ならではの被害のあり方、大部地区で100年に一度土砂が流れるという言い伝えのあった「ナガサレやま」がその時本当に流れたこと、各集落の被災の違い、ハザードマップ作成や砂防ダムの建設などの災害防止対策、、公民館での講義の後に、マイクロバスで各集落を通りながら詳しく教えてくださいました。

🍅その後、大部地区灘山集落へ行き、灘山の中村自治会長、この集落ご出身の小川さん、役場職員としてこの集落の状況把握に派遣された橋本さんにお話を伺いました。この集落は棚田で有名な中山集落、中山と共に農村歌舞伎で有名な肥土山集落、大坂城残石公園のある小海集落などから、明治期以降に移住した人たちが作った集落。みな採石業に携わっていました。

🍅硬い岩盤からなるこの集落では、真砂土が流れた他の集落とは異なり、土砂崩れが起きた箇所は一ヶ所のみ、他は水が物凄い勢いで岩盤を滑り流れる「鉄砲水」が激しかったとのこと。集落の自然環境の在り方によって、災害時生まれる状況が違うのだということが良くわかりました。

大部地区フィールドワークDAY2

🍊朝から大部公民館へ。三つのグループに分かれて、①お父さまを災害で亡くされた小川さんご夫婦、②家が大きな被害にあった砂子さん・荒井さん、③当時役場職員として被害の把握・救援に携わられた石井さんにそれぞれお話を伺いました。

🍊47年前の記憶をたどりながら一生懸命話してくださるみなさんを前に、学生たちの表情も真剣そのもの。神戸で、事前に阪神淡路大震災の記録化の試みや、映像編集の技法について学んできたということで、そうした知識をフルに動員しながら頑張ってくれました。学生たちが撮影・編集したインタビュー映像は、完成次第、とのしょうキャンパスHPで公開しますので、ぜひ見て戴きたいです。

🍊インタビュー後のお昼ご飯は、前日から大部地区のお母さんたちが準備してくださっていた「石切り寿司」をいただきました!旬の魚介を使ったお寿司だけでなく、お素麺、島野菜の天ぷら、デザートまで用意してくださって…見た目も美しくて本当に感激でした😍

最後は小部キャンプ場で、BBQ!14時過ぎから19時くらいまで、のんび~り🏝
@shima_asobi

今回も、たくさんのみなさんにお世話になりました。異常気象による自然災害が多発している今、それぞれが自分たちの暮らす地域の過去を振り返り、必要な備えを考え、議論することが大事だと思います。どんな映像が出来上がるか、ご期待ください!

森 亜紀子

森 亜紀子

土庄町地域おこし協力隊 (域学連携担当)

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